世の中の一部には想像力が欠ける人々がいる。
普段は大きな問題ではないが、ある時にはそれを武器のように翳し、ナイフのように刺すことができる。
わたしはそれを見て、非常に可哀そうだなと思う。そんな話。
嘘つき?
こういうことを陰で言われているのを、わたしは知っている。
「あいつは自分で計算ができないって言っているけど、あれは嘘だ。
だってそれが本当なら、進学校に受かるわけないし。
本当は計算ができるけど、それを隠しているだけだ。
そもそも発達障害になんか見えないし。」
別にそう思うならそう思われていても結構なんだけど。
なんだかそういうことを言える人のことを、タイトル通り可哀そうに思えてきたので話をしてみようと思う。
発達障害と診断された
わたしは大人になってからASD(自閉スペクトラム・アスペルガー症候群)、ADHD(注意欠如・多動症)と診断された。
いわゆる発達障害というやつで、能力に凹凸があり、平均的な動作を求められてもうまくできないことがある。
たとえば、興味があることにはとことん打ち込むが、興味がないことはやる気すら起きないので、「怠けている」とか「我儘だ」という風に見えるかもしれない。
最近の日本ではやっと「発達障害」は、珍しいことでもなければ病気でもないということが認知されている。
ただ、実際のところはどうだろうか。本当に認知されているか。
学生生活での苦悩
わたしは発達障害の中でもIQが高いほうの発達障害なのだそう。
わたしが得意なことは言葉と文章構成、色彩と五感覚、瞬間記憶などだが、その代わり、数学的思考とスポーツが劣っている。
子供の頃は自分が発達障害だと思っていなかったので、なんとなく他の子とは考え方が合わないなという自覚はあった。
きっと小学生低学年までは自分の好き勝手にやっていたが、高学年の社交性が身につくような頃には、場の空気を悪くするとめんどくさいな~と思って、「普通の子」を演じるようになっていく。
(あとでからこれが、アスペルガー女子に多い「擬態」というやつだと知る。IQが高い子供は、自分を隠して他に合わせようとする)
IQについて、偏見があるわけではないが正直なところを話すと、
IQが低ければ発達障害だと見た目でもわかるのに、IQが高いと見た目ではわからない。
親でさえもわからなかったのだから。
擬態する生活
わたしは擬態したまま学生生活を続け、しかしその間にトラブルは多々あり。
擬態がうまくいかずに空気を悪くしたこともあるし、自分の感情が抑えられなくてひと悶着したこともある。
本当の友達なら仲直りできるよ、という人がいるかもしれないが、親しき仲にも礼儀ありで、価値観や考え方が違えば、人間どもはすぐに敵認定する。
中学3年生の頃に悟ったのは、わたしはなるべくひとりひっそりと自分のやるべきことだけをやって生きることが、堂々と生きているという意味だ。ということ。
学生の本分は勉強であるが、IQが高いこと=勉強ができるということではない。(身をもって言っておく)
わたしの場合は国語、英語、社会、理科はほぼ暗記だし。英語は留学もしていたのでよかった。読書大好きっ子だった。
凹をどうやって伸ばすか
しかし数学だけは、数字が色に見えるし、動いて踊って、集中できない。
連立方程式は飴玉に見えるし、図形はケーキにしか見えない。
数学で唯一できるのは証明だけで(あれは国語だから)、その他のことは問題文から式すらも作れない。
そもそも数を数えるのも、30までしか数えられない。
31から数えようとすると、どこかで重複したり、数字の順序が入違ったりする。
今でもそうだが、わたしは30ブロックずつしか数が数えられない。(30進法という高度なことをやっている?)
計算にいたっては、一の位の計算もちょっと怪しいし、十の位以上は筆算しないとできない。
大人になった今は電卓があるから平気だが、学生の頃は、そのせいで時間オーバーになりテストの問題が半分も解けないという事態が多かった。
そんなわたし、中学3年生の頃、地元で一番偏差値が高い進学校を目指すことになり(どうして目指したのかわからないが、なんかゲーム感覚だった気がする)、そこでは基本5教科で450点以上でボーダーラインかな、というレベルだった。
で、そこでわたしは、数学で60点とればいける、というハチャメチャ思考だった。
どういう計算で60点を導き出したのかもわからないが、とにかく数学は60点とろうと決意した(笑)。
実際、模擬テストや中間・期末テストの成績は数学以外はよかったので、謎の確信があったのかも。
発達障害の受験対策
それからは、とてもとても努力した。
まずは数字とお友達にならないといけないと思った。そうしなければ勝手に動いたり、踊ったりするのが止まらない。
特に踊りまくる「3」がでてくる時には注意が必要だった。「3」は他の数字のことも誘って、問題文をすべてピンク色にしてしまうから。
過去問をひたすら解き、文章構成を暗記する。
さらに、数字と仲良くしつつ、「数字と数字の組み合わせから結合したり分解したりする」方法を編み出す。
頭でうんうん唸って計算しなくても、数字の色でだいたいの答えのアタリをつけられるようになる。
正確な答えかどうかは筆算してみないとわからないけど、筆算のスピードもこの方法でUPすることを発見した。
授業で先生が教えているやり方とは違う。
公式と過去問を暗記して、数字の組み合わせの法則を分析していくやり方。
まあこれ、わたしにしかできないよね(笑)
大人になってから、買い物でだいたいの金額のアタリをつけられたり、家計簿をつけなくても赤字にならないやりくりができるのはこの努力のおかげだ。(因みに実際に家計簿をつけようとするとできない)
さらに言えば、わたしは個人事業主で、貸借対照表や損益計算などやらなきゃいけないのだが、それはソフト君がやってくれるだけで、実際の数字の動きを細かく見ているわけではない。
それもアタリという感覚でわかる(決してどんぶり勘定とかではない)。
あのとき、暴れる数字と向き合っておいてよかったと思う。
そんなこんなで志望校に難なく合格し、ゲームに勝ったけどつまらなくて1年で退学し(というのは表向きで、持病のせいもあった)、今に至る。
わたしは、入学するのは簡単だけど、ちゃんとそれを続けて卒業できた人のほうが何倍も優れていると思う。
退学したわたしはマジで凄くもなんともないし、なんなら退学するくらいなら受験しなきゃ良かったよね、その1席を最後まで通うべき人に譲りたかった。
努力を想像できない人は可哀そう
ここまで記してタイトル回収するのだが、自分が努力して身に着けたことはいちいち言わなくない?
というか今フツーのように生きているように見えるなら、「ああ、努力したんだな」ってなぜ想像できない?
ピアニストが、ギタリストが、うまい演奏をしたときに「こりゃ嘘つきだ」なんて思うの?
その「今」が結果であって、それは努力した結果なんじゃないの?
わたしは周囲に擬態していたので昔も今も「発達障害に見えないね」と言われる。
それはいい。多くの人は、本当にわたしが発達障害に見えなくていい意味で言ってくれていると解釈いている。
けど「発達障害に見えないね。なんで嘘つくの?」というのは解せぬ。
それはあなたの感想なので放置するでもいいんだけど、その狭い狭い視点では他人の努力を想像できない可哀そうな人なのだと、思っておくことにする。
なんならもしかするとわたしのように「擬態」した発達障害エイリアンがもっと潜んでいるかもしれなくて、そのたびに「こいつめちゃ可哀そう…」と「発達障害者から憐みの目を向けられる」という平和的罰を受けてください。
IQが高い、低いとか、発達障害か健常者かとか、そんなの関係なく、人それぞれ社会に適応するために様々な努力をしているわけで、
その結果「○○には見えないね~!」ってなった時、それはその人がそう見えるように努力した結果だから、それを真摯に受け止めればいいだけのこと。
内側ではフル回転
しかしながら、「発達障害に見えない」というのはあくまでも外側の話であって、発達障害者の困りごとは本人の内側で起きている。
つまり外側では平然としていても、本人の内側では「もっと口角を上げなきゃ」「なんの話をしているかまとめなきゃ」「貧乏ゆすりだめ!」「次どれをやったらいいんだっけ?」などとフル回転している。
子供の頃にはうまくできなかったそれらも、人生経験を積むにしたがってコントロールできるようになるが、そのストレスはマジでえぐい。
本当に本当に疲れる。
仲の良い人々は善意で「気を使わなくていいからね」と言ってくれる(それはとても感謝)が、何分これは無意識(一種のルーティン)でやっているから、止めようがない。
なので疲れ切って寝たらそっとしといてやってください。
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