わたしの書籍『共感覚の魔女:カラフルな万華鏡を生きる』(現代書館)のなかで、読者に特に人気のある短編が「水海月と青」(p.230)だ。
おそらくこの話が好まれる理由は、色、音、触感、光の描写が繊細で、共感覚的な世界に没入しやすいからだと思う。
けれどこの話の本質は、わたしの「愛のかたち」にある。
しかもそれは、あまりにも特異で、理解されがたいもの。
今回は少し勇気を出して、その構造を言葉にしてみようと思う。
溶けて、混ざりたい
わたしは、彼が放つその色の美しさに息を呑んだ。(中略)
彼は深海そのものだった。他の色は一切ない、青だけの深海で、わたしを揺り籠のように抱き、心地よくさせた。この揺り籠のなかにずっといたい、抱かれていたい、いや、むしろこの青と一体となって溶けてしまいたい。――『共感覚の魔女』p.231
「水海月と青」の中で、繰り返されるキーワードが「溶ける」「透ける」。
ふつうの人が愛に求めるのは「理解」「支え合い」「触れ合い」かもしれないけれど、わたしはそれでは満たされないし、必要としない。
わたしは共感覚を持っていて、人を見ただけで(感じただけで)その人の“色”が流れ込んでくる。
それはただの視覚情報や単なるイメージではなく、他の感覚……温度、音楽、質感など、五感すべてが混ざって情報処理される。
つまりわたしの好きという感覚(感情ではなく感覚)は、五感情報すべてを分析したあと「この色すてき」と思えるかどうかなのだ。
「この色の人すてき」と思うと、わたしはもっとその色に溶けたいし、混ざりたい。
わたしは境界が曖昧
共感覚のせいで相手の色も自分のなかに入ってくるので、「わたし」という肉体的・精神的な輪郭がいつも曖昧だ。
けれどわたしは「自分」を保っておきたいとか、肉体に自我を留めておきたいとは思わない。
それは一人で生きるという意味だからだ。
わたしは魔女暮らしを始めてから、多くの「小さきもの」に生かされており、決して自分だけの力で存在しているわけではない。
わたしは常に、外部の色を受け取り、内側から色を吐き出す――媒体のような存在。
だからこそ、美しい色に出会うとき、その中に飛び込んで、溶けて、混ざり、一体化したいと願う。
見上げれば、半透明なゼリー状の水海月が7ふよふよと漂っていた。海面から光が差し込んで、水海月は時折ブライトブルーに輝いた。それを見て、ああ、やつらは青に透けて、溶けて、一体となる、なんと羨ましいのだろう、と思った。――『共感覚の魔女』p.232
愛とはなにか?
そもそも、愛とは一体なんなのか?
人間の言う“愛”とは、心理的結びつきや、身体的快楽、本能的な種の継続――そういったものの総称かもしれない。
けれど、わたしにはその多くが薄っぺらく、退屈に見える。
なぜなら共感覚を通じて、その人の“言葉の裏側”が見えてしまうからだ。
「愛してる」の中に潜む、支配、依存、承認欲求……それらがすべて色となって押し寄せる。
聖書の言葉を借りれば「愛という皮をかぶった獣」のなんとも多きこと。
肉体は必要か?
多くの愛は、肉体を通して交わされる。
それを否定するつもりはない――脳の仕組みがそうさせているだけだから。
けれどわたしは人体に触れたいのではなく、その色に溶けたいのだ。
けれど肉体が邪魔をして、なかの色に触れることができない。
お互いが魂の姿になれれば、溶けて、混ざって、一体となれるかもしれないが、それはできない。
人間たちは裸になってお互いを確かめ合って繋がり合ったと思っているけれど、わたしにはそこに喪失感とむなしさしか残らない。
わたしには見える、その人の景色が。色になって見えてしまう。けれど見えたところで、肉壁隔てたこの器で、なにができようか。なにを信じてもらえるだろうか。――『共感覚の魔女』p.233
肉体が、ほんとうに邪魔。
わたしが普通の女の子だったなら
もしわたしがなんの変哲もない女の子だったなら、これが恋なのかと信じたことだろう。すべてを投げ打って恋に溺れるならばそれはそれで面白いと思ったが、反面、わたしはこの青に、恋だの愛だのとはべつのなにかを感じていた。――『共感覚の魔女』p.232
「水海月と青」にも書いたとおり、わたしがもし普通の女の子だったら、この青に「恋してる」と思ったかもしれない。
彼の色からは、Aシャープマイナーの、6拍子の浮遊感を感じる音楽が流れている。
しかしAシャープマイナーは楽譜上ではシャープが7つもあり扱いにくいため、ふつうはBフラットマイナーに置き換えられることが多い。
しかしわたしは、彼の青色=Aシャープマイナーしかありえないとさえ思えっている。
6拍子からもわかるように、つまるところこの音色は複雑で、美しい。
わたしはこの青に、溶けたい、混ざりたい、なくなりたいと願った。
輪郭を消してほしい
世間では「自分の軸を持て」「自分らしく」と叫ばれている。
でも、そもそも“自分”ってなに?と、わたしは思う。
自分なんてものは、自分が自分たらしめている、一種の枷に過ぎない。
逆にわたしは、自分とか、自分という輪郭そのものを消してほしいと渇望している。
べつに人生に悲観しているわけではないし、自ら死にたいわけでもないし、そういう意味ではない。
わたしは常に共感覚のせいで自分のなかに色の洪水が流れ込んでくる。
特に「この人のすてきな色」が流れ込んできたとき、その色の綺麗さに圧倒されて、このままこの色に溶けて、混ざって、そしてわたしの輪郭ごと消えてしまいたいと思う。
それはすなわち、愛=死なのだ。
わたしにとって愛は、死
浮遊するAシャープマイナー。その音色の悲しみはわたしの内側へ浸食していく。わたしの緑色の細胞が、次々とオールブルーになっていく。――『共感覚の魔女』p.234
つまり、わたしのなかに、
わたし以外の色が無理やり流れ込んできて、
綺麗で綺麗でわたしの色を保っていられなくなって、
その綺麗な色に全てを捧げたい、支配してほしいなどと願うとき――……
それはある意味でわたしの色の「死」なのだ。
人間とは混ざれない
じゃあ、人間とそのやりとりができるかといえば、たぶん、できない。
なぜなら人間には、必ず“見返り”があるから。
安心、承認、所有……
どんなに美辞麗句を並べて愛を語っても、それが行きつくところは自分への見返りなのだ。
そういった欲求がある限り、魂は混ざらない。共鳴しない。
共鳴には、自我を脱ぎ捨てる覚悟が必要だ。
でもそれをできる人は、ほとんどいない。
さいごに
というわけで、これがわたしの“こじらせ特異愛”である。おわかりか?
(わかんないよ!って声が聞こえそう)
「水海月の青」くんとうまくいったかどうかは、……それは、読んだ人それぞれの解釈に委ねたい。
でもわたしは今でも、あの青の中で、静かに溶けて消えたかった。
気になる人はぜひ『共感覚の魔女:カラフルな万華鏡を生きる』(現代書館)を手に取って読んでみてくださいね!
既に読んだことあるよ!という人、ほんとうにありがとうございます!
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