皆さんご存じの通りわたしは「魔女暮らしをしている」、しがない「魔女」である。
けれど、いわゆる「スピリチュアル」は、あまり好きではない。いや、むしろ大嫌い!
このことを話すと、「どうして?」とよく聞かれる。魔女とスピリチュアルは隣り合わせのように思っている人が多いのかもしれない。
そこで今回は、わたし自身の認知特性――アスペルガー的な視点から、「なぜスピリチュアルに違和感を覚えるのか」を、ロジカルに紐解いてみる。
※わたしはスピリチュアルが嫌いだが、否定をするわけではなく、以下に述べることはあくまでも個人的な嗜好の問題であるとご承知おきください。
「魔女」と「スピ」の乖離について
まずわたしが考える「魔女」とは、自然と共に生き、因果や循環を重んじ、日々の営みのなかで知恵を育てる存在である。
特別な能力や神秘性を装うものではなく、地に足のついた生活と、自然への深い理解が基盤にある。
一方、現代のスピリチュアル界隈には、次のような傾向を感じることが多くある。
- 根拠のない断言(例:「宇宙がそう言っている」)
- 意味や背景を理解しないまま、言葉を安易に消費する傾向
- ファッション化・商品化された「魔女」や「スピリチュアル風」のイメージ
これも文化のひとつ、として捉えているし、スピを好きでやっている人を否定はしない。
スピリチュアルを表面的に捉えたい人の方が需要があるから、そういうムーブメントが起きているのだろう。
また現代社会においてスピリチュアルが自己啓発・自己探求、あるいは承認欲求を満たすツールのひとつであることも理解している。
必要な人にとっては必要なものなのだろう。
ただわたしは自分と世間一般の認知のズレに、強い違和感を覚えるのだった。
本来は自然と向き合うための言葉や概念が、表層的に消費されることで、意味を失ってしまうのではないか。
アスペルガー的視点から解説
ここでASD(自閉スペクトラム・アスペルガー症)について話したい。
わたしの場合はASDの発達特性のなかで、こだわりの強さや、言葉に対する正確性、物事を多層構造的に捉える癖が強くある。
(その他にも、感覚過敏やらコミュニケーションがうまくできないやら感情の認知の遅れなどもあるが、今回は関係ないので置いとく)
なかでも言葉と意味の一致に強いこだわりを持っている。
言葉が持つ本来の意味や背景を重視し、それがずれていると非常にストレスを感じる特性があるのだ。
これは日本語を間違って使っているかどうかという意味ではなく(間違いはだれにでもあるからね)、言葉の重さに釣り合わない表現やニュアンスに違和感を感じるのだ。
たとえばほんとうは重たい意味をもつ言葉を、薄っぺらい感情で発してしまったり(またその逆も然り)……というシュチュエーションのときに、「おいおいそれは違うだろ」と内心ツッコミを入れてしまう。
また、社会的ラベルや定義の曖昧さに対しても敏感だ。
たとえば年齢、職業、肩書きなどの社会的ラベルは、ときにその人間そのものの実態からかけ離れている場合がある。
わたしはそれが苦手でーーというか見えた色でどんな人間かがわかるので、どれだけ凄いラベルでも色が浅いとか、逆に見た目がチャラいのに色が深いなどということはよくある。
このようにわたしは最初から本質や構造に触れてしまうし、自然に見抜こうとする癖がある。
そのため、
- 歴史的背景や意味を理解せずに「魔女」を名乗る人
- 検証や説明なく「引き寄せ」を語る人
に対しては「どっちの意味で?」と確認したくなってしまう。
これは冷たい態度ではなく、本質を大事にしたいという思いからくる、自然な反応だと思う。
“魔女”はわたしにとって生き方
わたしにとって「魔女」とは、名乗るものではなく、日々の暮らしや思考のなかにある哲学のようなもの。
魔女の思想はわたしにとっての行動規範であり、右脳優位なわたしが無理なく左脳優位社会と隣接することができるもの。
一方で「スピリチュアル」という概念は、理解できる部分もあるが、受け入れるには必ず検証と整合性が必要になる。
なぜなら巷に溢れかえっているスピリチュアルは飽和状態で、だれでも幸せになれるためのメソッドや自己啓発なども含めると、内容が表面的すぎる。
だれにとっても当たり障りのないことを言っている。
けれど本来の「魔女」も「スピリチュアル」も、根本的には深い沼のようなものである。
表面上を理解するだけで満足する人が多いことがわたしは理解できないくらいだ。
調べれば調べるほど、本を読めば読むほど、魔女もスピリチュアルも素晴らしい知識の宝庫であり、この世界の構造をきちんと説明している。
ちなみにわたしが勉強したときには日本の和訳された本は本質から遠く感じたので、源流を辿るために洋書を読み漁った。
さらにそのまた源流を辿るために、ラテン語やヘブライ語の書物まで読み漁って、死海文書やエメラルド・タブレット、ユダヤ教の旧約聖書とは異なる「ヘルメティックカバラ」を読了した。
(これらの本はおそらく難しいのでおすすめしない。興味がある人は、わたしのVimeoの魔術授業を受講されるほうが分かりやすいと思う)
このように、アスペルガー的な認知特性では、感覚的なものを感覚として尊重しながらも、それを「説明できるか」「理屈として成り立つか」を常に確認しようとしている。
それはわたし自身が共感覚者で、他者と感覚を共有することが難しかったので、なんでもひとまずロジカルに理解しようというのも手伝っているのかもしれない。
とにもかくにも、構造を深くまで掘り下げて多角的に理解し、処理し、言語化と感覚化をするというのが、わたしは得意なのだ。
それを他人に押し付けることはしないが、やっぱり浅い「魔女」も「スピリチュアル」も嫌い。大嫌い。
魔女と名乗りたくない
そんなわたしは近年、「魔女と名乗りたくない」と公言している。
『共感覚の魔女:カラフルな万華鏡を生きる』(現代書館)を出版しておいて言うのもなんだが、上述した通り、わたしと世間一般の「魔女」のイメージが乖離している。
いい? 「乖離」なの。これはもう元に戻らないという意味。
かつて生きた魔女たちが、「魔女」だといわれ魔女狩りをされてきたように、現代でも本質の意味とかけ離れて「魔女」という言葉が使われていることにわたしは憤りを感じる。
そしてこれは正当な怒りのようにも感じる。
しかしわたしは別に、「魔女」という肩書きでラベリングしたいわけではない。
なぜなら魔女は生き方であるから、どう名乗ってもいいし、別の宗教に属したっていい。
「魔女」という名称には本来、なんの力もないのだ。
だからわたしは「色の表現者」として活動している。
この肩書きは、わたしが見ている世界、表現しているもの、そして実際の行動や活動内容と意味が一致しているから選んだものだ。
誤解されやすい言葉や、意味がぼやける言葉はなるべく使いたくない。
それが、わたしなりの誠実さだと認識している。
まとめ:わたしにとっての「スピ嫌い」は、整合性へのこだわり
わたしは、スピリチュアル全体を否定しているわけではない。
ただ、意味を理解せずに言葉を使ったり、言葉と実態が大きく乖離している場面を見ると、強い違和感を抱く。
これは、わたし自身のアスペルガー的な認知特性――
つまり、本質と構造に誠実でありたいという思いからきている。
言葉に責任を持ちたい。
生き方と言葉が一致している世界でありたい。
それが、わたしがスピリチュアルに慎重になる理由。