感覚過敏と共感覚を持つわたしが経験する、オーバーフローという現象。生きづらさを抱える日々のなかで、どのように感覚をコントロールし、アウトプットによって心を保っているか。6つの実践的な対処法を紹介します。
美しさに呑まれる
わたしにとって「好き」とは、一般的な意味での温かな感情ではない。
言語化するのが難しいが、それはもっと原始的で、自我の輪郭が崩れるような衝動だ。
たとえば、美しい景色や絵画、人物や音楽などを感じたとき。
五感で感じたすべての情報が色になって流れ込み、胸がぎゅっと締めつけられる。
それはわたしにとって、甘やかでも優しくもない。
どちらかというと、わたしを破壊するほどの強烈な波だ。
この感覚は、美しいものを見たり聞いたり嗅いだり触ったり食べたりすると起こる。
わたしが定義する美しいものとは、たとえば古代の彫像(ダビデ像、ビーナス像)のように、陰陽のバランスがとれたものかもしれない。
外側だけ、内側だけ美しいのではだめなのだ。
完璧な比例と緊張のバランスをたたえた美が「好き」なのだ。
けれどそんな「好き」を感じた瞬間、それらは強烈すぎて、わたしはあっという間に崩れる。
情報が一瞬でどっと流れ込んできて、自分が保持していた自分という感覚に混ざってしまって、意識が溶けて、肉体が邪魔になって、存在そのものが薄れていく。
このまま、わたしがここから消えたらいいのに。
そんなふうに思う。
それは悲しい感情ではない。
ただ、帰りたくなるだけだ。あの、溶けていく先に。
魂が同化するようにひとつになれたらいいのにと思う。
その特異な「好き」に関してはこちらの記事でも詳しく解説している↓
発達特性と共感覚が重なる
わたしの脳には、いくつかの特性がある。
まず、発達障害(ASD・自閉スペクトラムアスペルガー症)の特性として、以下のような傾向がある。
- 情報の取捨選択が苦手で、入ってきたものを全部処理しようとする
- ひとつのことに強く集中しやすく、終わることができない
- 感覚過敏があり、光・音・匂いなどに通常より強く反応する
これらは単体でも生きづらさになるが、わたしの場合、それに「共感覚」が重なっている。
共感覚とは、たとえば「音が色に見える」「言葉に温度を感じる」など、異なる感覚が同時に反応する神経のつながりを持つ状態だ。
わたしの場合、それはかなり広範囲にわたっていて、
- 人間などの生き物、匂い、味、音楽が色や光として見える
- 人の声や気配が「空気の流れ」や「圧」として感じられ、色になって感じる
- 言葉や物の名前に、独自の色・形・感触がついている
このため、情報が五感のどこから入ってきても、一気に全感覚に波及してしまう。
つまり、
- ASD特性=ブレーキが弱くて処理しすぎる構造
- 共感覚=入力信号が拡張・変換されて届く仕組み
このふたつが合わさることで、「入ってきた刺激が変換・増幅されてから、処理しきれずに溢れる」状態になる。
それが、わたしのいう「オーバーフロー」だ。
想像を絶する苦しさ
たとえば、突然すばらしい光景や音に出会ったとき。
それは人によっては「きれいだなあ」で終わるかもしれない。
けれどわたしにとっては、突然、世界が崩れ落ちるような体験になる。
それは、体の奥を貫くような衝撃で、うまく呼吸もできなくなるような痛みだ。
涙が出るとか、心が震えるとか、そういう範囲では終わらない。
体が熱くなって、視界がチカチカして、「もうこれ以上、受け取りたくない」と思っても止められない。
耳を塞いでも、目を閉じても、感じてしまう。
なにより辛いのは、それが予告なく起こることだ。
ただ、歩いていた。
ただ、動画を見ていた。
ただ、音楽を流していただけ。
それだけで、わたしの心と神経は「圧倒されすぎて壊れてしまう」。
これは感受性の高さとか、情緒的な話ではない。
脳の構造上の、どうにもならない「仕様」なのだ。
わたしは幼いころ、これは誰にでも起きていることで「普通」だと思っていた。
「感じる(見える)」=「痛み」であると思っていた。今でもそうだ。
けれどわたしと他人との感覚の違いをふとしたときに気付くとき、非常に冷静に「ああ、皆は痛くないんだ(見えてないから)」さめざめと思う。
わたしにとってこの痛みは普通で、苦しいとは認識していなかった。
けれどこれを「苦しいと言っていいんだ」と許されたとき(社会が多様性についてオープンになってきたとき)、わたしのなかで「苦しいってこういうことなんだ」とやっと感情を理解したのだ。
さて、ではどんなときにわたしが美しさに呑まれてしまうのか、事例を挙げてみよう。
事例1:「VIOLA」のフランチェスコ

イタリアのドラマ「VIOLA」は、共感覚をテーマにした作品だった。
わたしはそのテーマに惹かれて見始めたけれど、主人公の共感覚の描写は、正直なところ、わたしのそれとはまったく違っていた。
だけど、そんなことは途中でどうでもよくなった。
なんならストーリーももはやどうでもいい。(いや、普通に面白いし、ロマンスも盛りだくさんでヤキモキさせられたけど!)
そんなことよりなによりフランチェスコ(画像の右側の男性俳優の役)だ!
見ているあいだ、彼のことを「かっこいい」と思った記憶はあまりない。
けれど最終話を見終えたあと、わたしのなかに、はっきりと残っている色があった。
それは、コバルトブルー。
しかも、それはただの色ではなかった。
彼の存在感、声の響き、目線の動き、そのすべてが、濃く、静かに、深層心理の瞬間記憶に焼きついていた。
あとから俳優のジャン・ヤマンを調べてみた。
「世界で最もハンサムな顔100人」の37位に選ばれたことがある人だった。
彼はトルコのイスタンブール出身で、イタリア語もペラペラ。肉体美ボディ。
トルコでも人気があるが、イタリアの女性は彼にメロメロだそうなのだ。(日本人で例えるとGacktかな?)
でも、わたしが惹かれたのは「俳優ジャン・ヤマン」ではない。
たしかにトルコ人は大好きだし、トルコって美しい人がたくさんいると思う。
しかしわたしが美しいと感じたのは、フランチェスコという役柄の存在の中に流れていた美だった。
さらに、シチリアの街並み、カラフルなインテリア、そしてイタリア語の歌うようなイントネーションまで、すべて一緒に記憶されてしまった。
まるでひとつの「色彩の風景」として、わたしの中に沈殿してしまったのだ。
そのままでは、わたしはまた溺れてしまうと思った。
だから、せめてフランチェスコが話していた「言語」に触れることにした。
イタリア語をひとつずつ覚え、声に出して発音してみる。
それが、わたしなりのアウトプットだった。
あの色を外に出さないと、わたしは壊れてしまいそうだったから。
事例2:keshiの音楽
ある日、YouTubeのおすすめに流れてきた小さな動画。
(わかりやすいように本家ではなく和訳の動画を引用)
それが、keshi(ケシ)だった。
最初は、何の気なしに再生した。
その瞬間、わたしのなかに光が流れ込んでいた。
声が響いた瞬間、色が広がった。
音の粒が細く、なめらかに揺れていて、それはまるで水面に映る朝の光のようだった。
澄んでいて、でもどこか冷たくて、胸の奥に触れてはいけない場所を優しくなぞってくる。
気がついたときには、涙が止まらなくなっていた。
心が動いた、というよりも、動かされてしまったというほうが近い。
わたしの意思ではなかった。
音が、色が、気配が、全部同時に入ってきて、わたしのなかのどこかにある「核」に触れてしまった。
そのあと、しばらく現実に戻れなかった。
窓の外の景色も、生活の音も、すべてがノイズのように遠くて、ただその音の余韻と、色だけが残っていた。
本当は、もっと聴きたかった。
でも、もう一度再生するのが怖かった。
またあの「光の洪水」に呑まれて、日常に戻れなくなる気がした。
だから、わたしは彼の音楽を「保留」にした。
今はまだ、近づいてはいけないと判断したからだ。
オーバーフロー6つの対処法
このように、オーバーフローは突然やってくる。
日常のなかで、なにげなく出会った美しさや声や色に、わたしの中枢が一気に呑まれてしまう。
そのとき、わたしは判断力や感情の制御を一時的に失ってしまう。
でも生きていくには、それと共存していく方法が必要だ。
以下は、わたしが日々行っている6つの対処法。
どれも医療的な手段ではないけれど、実際にわたしの生活を支えてくれている、大切な工夫である。
① 刺激から距離をとる
美しさに圧倒されたとき、まずすることは「離れる」こと。
対象そのものに近づくと、さらなる情報が流れ込んできてしまうため、一時的に視覚・聴覚的な接触を遮断する。
たとえば、ジャン・ヤマンのInstagramを見ない、keshiの音楽をあえて再生しない、SNSを閉じるなど。
この「距離」はわたしにとって、呼吸を取り戻すためのスペースになる。
② アウトプットして排出する
感覚的な情報が内側に溜まったままだと、熱がこもってしまう。
わたしはそれを「外に出す」ことで冷ます。
たとえば、イタリア語を発音すること、言葉にしてブログに書くこと、絵にすること。なんでもいい。
あなたがやる場合は、得意なことで全然いい。
アウトプットは、感覚の循環を促し、オーバーフローの行き場をつくってくれる。
③ 身体を安心させる(ディーププレッシャー)
神経が高ぶっているとき、ぬいぐるみを抱いたり、重みのある布を身体にかけたりする。
これはディーププレッシャーと呼ばれる方法で、触覚刺激を与えることで交感神経を鎮め、心身をリセットする助けになる。
わたしにとって、ぬいぐるみはただの可愛い存在ではなく、神経系に安らぎをもたらし、リラックスへ導くものだ。
④ 単純な反復行動で神経を均す
編み物のように、手を動かしながら同じパターンを繰り返す行為は、頭のなかの「うるささ」を静かにしてくれる。
感覚過敏のあるわたしには、音や光といった入力の多い作業よりも、このような反復によって、内側のリズムを整えることが必要不可欠だ。
簡単なものでは、皿洗い、掃除、あやとり、折り紙など。とにかく思考とは切り離して手を勝手に動かせるものがいい。
⑤ 日常をルーティーン化して安定させる
日々のスケジュールに「変化」が多すぎると、神経の消耗が激しくなる。
だから、できるだけ予測可能な時間割をつくっている。
たとえば、月曜日と木曜日はゆるゆる、火曜日と金曜日は梱包作業など、わたしの場合はある程度決まっている。
それから食事の時間、作業の流れ、休憩のとり方など、パターン化することで、不意の刺激に対する耐性も高くなる。
⑥ 左脳優位の活動に切り替える
感覚的な刺激で圧倒されたとき、あえて言語や論理を使う作業に切り替えることで、興奮をおさえることができる。
たとえばわたしの場合は、英語やイタリア語で会話したり、思考実験クイズ(例:トロッコ問題、テセウスの船など)をする。
わたしは不得意だが、素数を数えたり、計算問題を解いたり、化学式を酸化還元するのもいいと思う。
これは「別の脳の領域(左脳)を動かすことで、感覚の負荷を分散する」行為だ。
わたしという存在を一時的に「観察者の立場(メタ認知)」に戻す、非常に有効な対処法。
わたしの多チャンネル出力
よく、「どうしてそんなにいろいろ作っているの?」と聞かれる。
絵を描き、毛糸を染め、物語を書き、文章を綴り、動画も作っている。
一見バラバラに見えるかもしれないけれど、わたしにとっては、どれも内側から溢れてくるものを外に出すための通路だ。
色で感じたから絵にする。音を聴いたから音楽にする。
そんなふうに、媒介を選んでいるわけじゃない。
正直、なんでもいい。
絵でも、言葉でも、毛糸でも、音でも。
ただ、わたしのなかに留めてしまうと壊れるから、出口が必要なだけなんだ。
感覚のオーバーフローをコントロールするには、アウトプットし続けるしかない。
そしてそのためには、出せる場所が多いほうがいい。
だから、わたしにとって多チャンネル出力は、なくてはならない生き方そのものだ。
今回は、感覚の過剰さとその対処について書いたけれど、次回はこの「多チャンネル出力」という仕組みを、もう少し掘り下げて話してみたいと思う。
どうしてこんなにもたくさんのアウトプットが必要なのか、その背景にあるものを。
感じすぎる世界で、生きていくということ
わたしは、世界をただ見ることができない。
音も、光も、人の気配も、ぜんぶが色になって、かたちになって、わたしのなかに流れ込んでくる。
それはときに、美しい。
だけど、美しすぎて、わたしを壊す。
感動は、快ではない。
息ができなくなるほどの重さで、わたしという器を簡単に溢れさせてしまう。
でもだからこそ、その器から少しずつ外に出していく方法を、わたしは覚えた。
手を動かすこと。言葉にすること。
リズムを保ち、安心をつくり、溢れそうになったら、すぐに出口をひらく。
そのすべてが、わたしにとって「生きる」ということだった。
もしこれを読んで、誰かのなかにも似たような感覚があるなら、どうか「自分の出口」を見つけてください。
わたしは、これからも探し続けていく。
感じすぎるこの世界で、それでもわたしであり続けるために。
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