わたしは、幼い頃から手を動かすことが好きだった。
好きだったというよりは、手を動かしていないと「落ち着かない」と言うべきかもしれない。
本当は走り出したい、ここではないどこかのことを空想していたい、そう思っていて
手を動かすことでなんとか現実とバランスをとっていたのかもしれない。
昔から「落ち着きのない子」と言われたが、
大人びてくるとその衝動を押し込めて過ごすことが多くなった。
反動は、手をひたすら動かすことで解消された。
例えば、ピアノ。
小学生から習い続けたその音の渦に潜ることで、わたしは自分を保つことができたのかもしれない。
一度弾けば、6時間は弾き続けることが多かった。
ただし楽譜通りに弾けない。おたまじゃくしの楽譜は、途中でカラフルな色に見え始め、強弱やリズムを勝手に変えてしまうのだった。
例えば、絵。
わたしは絵を習ったことはないし、絵を描くのが好きなわけでもないが、
一度描き始めると色の螺旋の中を飛んで、音や香りや味を表現することができた。
光と影は、言語外言語の情報を私に伝えてくれた。その人の性格や、気持ち。嘘までも。
だが、わたしはその色を正確に表現しても、どうやら周囲とは違って見えるのだと気付いた。
例えば、畑仕事。
雑草をとったり、収穫して、洗って、花びらをもぐ作業などは、簡単な手作業の繰り返しだ。
わたしはこの間、何かを考えることもあれば、感覚に身を任せることもある。
無音と自然音の狭間で作業するのが心地いいが、没頭しすぎてお昼のチャイムが鳴ったことに気付かない。
例えば、編み物。
カラフルな毛糸玉から糸を引き出すと1本なのに、同じ作業を繰り返すことで面になることに感動した。
線が、面になる。まるで、宇宙から星が生まれるように、男女から子供が生まれるように、自然の神秘さを感じた。
同じ作業を繰り返すことで、衝動性を整理することができた。
ワーキングメモリーが足りないぽんこつ頭でも、「いったん整理しよう」と考えるとき、わたしは編み物を選んだ。
それまでは同じ場所をぐるぐると歩行したり、手遊びやステップを踏んだりしていたが、そんなつまらないことよりもはるかに編み物は優れていた。
ピアノや絵のように、一度潜ると浮上するまで時間がかかることは、かえって集中しすぎてしまった。
例えば皿洗いや野菜を切るような単純作業も整理できるが、ずっとそれをやり続けることはできない。
洗い物は洗えばなくなるし、食べることを考えると野菜切りにも限界がある。
畑作業にしたって、いつかは作業が終了するのだから。
しかし編み物は、1段ごとに一区切りするからいつでもやめられる。
そして最後には成果として完成する。
よほど難しい編み方でない限り、手が勝手に動いて編むことができる。
その間、頭は整理できる。
わたしの場合は、昨日までの自分のあらすじを思い出したり(寝ると全て忘れてしまう)、今日やることを考えたりする。
仕事でタスクがたまったとき優先順位をつけるのが苦手なのだが、編み物をすると整理できる。
新しいアイディアが浮かぶときもある。
おそらく編み物好きな人のなかでは、この話は「よくある」ことかもしれない。
行き過ぎると「編み物中毒」と言うのかもしれない。
しかし知らない人は、「どうして編み物にハマるのか」わからないだろう、これはやってみないとわからないんだもの!
ただし、慣れないとこの感覚には陥れないけれど。
わたしの場合は編み物だったけれど、同じように衝動性に悩んでいる人にとってこれが最善手とは言えない。
きっとそれぞれに合ったツールがあると思う。探せますように。