わたしは、どちらかと言えば「目に見えないもの」にこそ本質があると感じている。
それは物心ついた時から、人には見えない色や光を感じており(後に共感覚者だとわかった)、感じ方は違うが家族にも何らかの目に見えないものが見えていた。
それらは見え方・感じ方が違うのに、「要するにこういうことよね」という根本の部分を指し示すようだった。
さて、そんなわたしは子供の頃から周囲の「普通」とは少し違った存在と認識されていたらしい。
わたしも「人には見えていないものが見えているっぽい」と感じていたけれど、周囲が「普通」を好むことを理解していたので、合わせて「普通」に生活したつもりだった。
しかしそれでも普通じゃないと認識されているようだった。
この違いはなんだ?というのが今日の話。
右脳発達、ぽんこつ前頭葉
わたしは発達障害(ASD・ADHD)で、わかりやすく言うと、脳の部署の得意不得意が激しい。
たとえばゲームのキャラクターステータスなら、剣士と魔法使いなら得意分野が違うので、初期能力値も伸ばす能力値も異なる。
わたしの場合は、計算が苦手(できないわけではなく、ものすごく時間がかかる)で、読書・瞬間記憶・芸術分野の能力が高い。
ASD特有のコミュニケーション難に関しては、(いまだに勘違いや誤解されることも多いが)人生経験で修正してきたので困難には感じていない。
よく言われるのは、計算のほうは左脳、芸術のほうは右脳という話。
わたしはどちらかと言えば右脳人間だということになる。
ところで今日、米澤さんのこちらのブログ記事をタイムリーに読んで
菅義偉氏の弔辞から学ぶ、人の心を動かす言霊のつくり方
- 大脳新皮質…左脳系が得意
- 大脳辺縁系…右脳系が得意
という話がとても面白かった。
わたしも、もうひとつのお店 黒猫魔術店のほうで、多くの油や精油を調合したり、その香りで儀式をしたりするが、香りの分子は大脳辺縁系へ伝達されて処理される。
たしかに、香りについて言葉で表現しようと思ってもなかなか難しい。
香りを嗅げばわたしのビジョンでは色や光が見えるけれど、万人に伝わる言語化ができない。
なぜなら言語化を得意とするのが左脳であり、大脳新皮質だから。
また、大脳辺縁系はまだよくわかっていない部分もあるという。
米澤さんの解釈「心」を多く含むということは、つまり心自体、科学ではよくわからないということだろう。
ある香りを嗅いだ時、心は一瞬でウキウキしたり、沈んだりすることから、米澤さんが仰るように人の心を容易に動かす。
わたしは「心でっかち」人間かもしれない。
心でっかち、判断基準が好き嫌い
そんな心でっかちなわたし、複雑なことを考えるのは大嫌い。
なぜなら前頭葉(ワーキングメモリ)でそんなに処理しきれないので、シンプルイズベストなのよ。
だいたいは「好き・嫌い」「したい・したくない」で決断するようにしている。
嫌いなこと、したくないことを「やらなきゃ~」と思いながらやるのはパフォーマンスが落ち、結果的にいいものができないので、シンプルマインドじゃない。
けれども誤解しないでほしいのは、ちゃんと理論的に考えることを放棄していない点。
むしろロジカル思考は好き。そもそも子供の頃、周囲と自分を比べ「普通」を演じることは好んでやったものではないが、そのほうが被害が最小だと考えた(理論)。
外国語を話したり、読んだり、文章を書くのも好き。
理論でも考えるが、最終的な判断基準としては、「倫理」がきてしまう倫理主義者。
「なんかよくわかんないけど善い(良いではない)ことをしたいし、善く生きたい。倫理に逸れたことはしたくない。
なぜなら道理に外れたことをすればいつかバチが3倍になって返ってくるから」(理由が理論ではない)と思っている。
たとえば理論思考なら、誰も見ていないなら悪いことをしてもいいし、利益になるならそのほうがいいでしょう、と考えるかもしれない。
けれど、わたしはそれを「なんとなくそうはなりたくない」という理論ではない理由で全拒否するし、そんな人と関わりたくもないと思う。
心でっかちワイ、結局、好き嫌い。
それが割と当たってる
子供の頃、「好き嫌いせずに食べろ」と言われてきたせい(?)か、「好き嫌い」すること自体悪のように思われる。
しかもそれが「好きな仕事ができていいね(羨ましいのか、妬みなのか意図不明)」とか、「苦手でもやるんだよ!経営者だろ!(喝)」と言われてきた。
わたしはそれが意味不明すぎた。
「好きな仕事」と思ってなく「仕事は他者に対して自分が貢献できる得意なこと」だと考えているし。
苦手(計算)なことではどう頑張っても時間がかかりすぎて萎える。それより得意なことしたほうが貢献できる。
だからわたしの極論「好き・嫌い」は間違ってはいない(ちゃんと理論的にも考えて判断すれば)。だから毎度そうしてきた。
特に損得的に考える人…「お金持ちと付き合っておけばいいよね(その人嫌いだけどね)」「この人の知識奪っちゃおう(中身はよくわからないけど)」「この人がうちの経営をなんとかしてくれないかな~(他力本願)」
という表面上辺だけ綺麗に取り繕う人種が大嫌いなので関わらない。(関わってこられても、話がかみ合わないほど意図が理解できないので)
でもそれが割と当たってて。
つまり理論で損得で考える人は、目先のことを考えればそれだけ、いずれ「淘汰」される結果に終わる。
表面だけ綺麗人種…表面っていうのが大脳新皮質だとしたら、その奥深くのところまでちゃんと見ないとだめよ、ということかと。
人は人に動かされ、お金を回すのも人と言うけれど、「心」まで見る付き合いをしたい。
そうでなければ、表面はいつしか期待をしてしまうし、人をコントロールしようと思うかもしれない。
心でっかち、カリスマ性。
わたしは、倫理的な理由で「人に期待したくないし、コントロールしない」というモットーがある。
わたしには高校生の娘がいるが、自分の身内であっても期待していないし、コントロールもしていない。
それは「対等」な関係性であって、わかりやすく言えば「マブダチ」のようなもの。
なぜ期待やコントロールをしないかと言うと、それをしてしまうと「対等」な関係ではなくなるから。
優劣、上下、親子、主従、それが悪いとは言わないが、あくまでもわたしは「上」に立ちたくないと思っている。
自分が尊敬する人はそのまま尊敬すればいいのであって、「尊敬せよ」と自らが言うものではないと思っている。
つまり恩を売ったり、物で釣ったり、お金をばら撒いたりして「尊敬せよ」と言うのは間違っている。
そして自らが「カリスマ」だと言う。
そういう関係性は必ず崩壊する。
下の者は褒美を期待し庇護下に安心感を覚え、上の者は民意を期待しそれをコントロールする。
そのどれかのバランスが崩れるとき、あっという間に砂の城。
わたしはそれを理論というよりは倫理的観点で強く理解しているので、プライベートでも仕事でもそういう関係性を築かないようにしている。
それは時に「ドライな関係」と言われることもある。
日本人は特に、庇護下に置かれたコントロール体制(共依存とも言う)が好きらしいから、自由にせよと言われても困るのだと思う。
共感覚のわたしの目から見て。
真にカリスマ性があるのは誰にも媚びず、恩を売らず、正常に社会貢献をする自由人で、そういう人は内側から光る濃密な煙が溢れ出ている。たいがいいい香りがする。
対して、先の例のような自称カリスマ輩は、頭の中や背景が透けて見える。これは言葉遊びではなく、本当に透明に見えるのだ。
「あ、中身、なんにもない」ということである。
おそらく本当のカリスマ性は、心である、大脳辺縁系、つまり感受性、芸術性、感覚、目に見えないもののことを理解している。
そしてそこに価値を置いている。表だけの一辺倒ではない、「深み」を感じる。
何か言葉を投げかければ、湖に小石を落としたかの如く、面白く深い答えが返ってくる。
知識が豊かで、心に彩りあれば、なにもしていないけれど経済的にも豊かなのだ。
わたしも、そんな人になりたい。
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