わたしは、ASD(自閉スペクトラム症・アスペルガー症候群)とADHD(注意欠如・多動症)という「発達障害」があるそうだ。
今日はその話と、生まれつき聴覚に障害のあるプロダンサーでパフォーマーの「かのけん」君の講演を聞いたので、その感想を記したいと思う。
しょうがい、って何
最近になって「発達障害」という言葉をよく聞くようになった。
わたしも大人になってから自分が「発達障害」だとわかった。
よく言われるのは、生きづらさを感じるとか、人にはできることが自分にはできないということ、
平均的で常識的なことを求められる社会ではうまく対応できず、日常生活が困難であるから「障害」と言われる。
身体障碍者と違って、発達障害は脳の障害と言われる。
一見して発達障害だとわかる人もいれば、わからない人もいる。
勇気を出して発達障害であることをカミングアウトしても、そんな風には見えないと、理解されなかったりもする。
そんな中、先ほど、かのけん君の講演を聴いた。
彼は生まれつき聴覚に障害があり、その人生のなかで様々なことがあったそうだ。
わたしはそれを聴きながら、
わたしも子供の頃から他人とは違うと感じていたし、それに、自分が持っているものが「障害」だとは思っていなかった。
わたしは人の話を聴いて共感することができなかったり、その人がどうしてそう思うのか?ということがよくわからないので、
日本人に必要な「暗黙の了解コミュニケーション」がうまくできなかったりする。
言葉を言葉のままに受け取り、冗談が通じず、意味がわからない時ははっきりと言う(確認しているつもり)から、よく人間から嫌われた。
子供の頃は、嫌われているということもよくわかっていない(嫌いだ、とはっきり言われたわけではない)から、
ずんずん人間に絡んでいって、嫌味を言われていることにも気づかない、陽気な馬鹿だと思われていたことだろう。
大人になってからは、「あ、人間はそうやってコミュニティを構築していくんだ」ということが理解できるようになったが、
やはり道筋立てた話でないと頭に入ってこなかったり、TPOに合わせた対処というものができない時がある。
それはたしかに負い目であった。
他の人にできるのに自分はできないということ、「普通は〇〇でしょ」と言われてもよくわからないこと、
一番嫌だったのは、わたしは正直に真面目にやっているにも関わらず「それは普通じゃない、こういう風にやるんだよ」と指示されることだった。
身近な例を挙げれば、小学生の美術で風景画を描いた。
わたしは「共感覚」という、五感で感じるものすべてが色や光に見える脳だった。
それは右脳が発達して、その代わり左脳がいまいちという、発達障害の特性である得意不得意に凹凸があるものでもある。
そんなわたしが風景画を描くと、先生は「嘘を描いてはいけませんよ、描き直しましょう。もっと景色をよくみて。遠近感ってわかる?」と言った。
そこでわたしが勉強不足だったかもと思い、いったん「遠近感法とは」の本を読む。
文字は右脳で変換されて映像のようになるので、本は速読ができる。(ただしじっとして読めないので体が動いてしまう)
遠近感法をマスターした後にまた絵を描く。それでも先生は「真面目に描いているの?現実にないものを描いちゃだめよ、描き直しましょう」と言った。
そこでわたしは、「あ、わたしの絵は、普通ではないのだな。誰からも理解されないのだな」と思った。
絵を自由に描いていいと言われたら、ずっと描き続けることができる気がするのに。
かのけん君がダンサーなので、その繋がりでダンスの話も書いておこう。
わたしは球技が苦手だった。
なぜならアイコンタクトでパスを回したり、ゴールを決めたり、メンバーが何を考えているのか予測して動くということが苦手だからだ。
パスが回ってくると「え?このボールどうすればいいの?」と何秒間か思考が停止する。
体育館も嫌いだった。
なぜなら、まず煩い。これも脳のせいらしいが、近くにいる人でも遠くにいる人でも同じボリュームに聞こえてしまうらしい。
そのため、脳の中でうまく情報が処理できない。
飲み屋で会話しているのを想像してみてほしい。普通は隣にいる人の声がよく聞こえるらしい?
わたしの場合は、離れた席の人の話し声も拾ってしまうので、隣にいる人の声が逆に聞こえない時がある。
あと体育館のカラフルなラインは、混乱する。
コートを分ける役目だろうが、わたしは赤が緑に見えたり、黄色が青に見えたりするので、どのラインがコートなのか距離感と形で認識するしかなかった。
それはわたしの脳のグルコースを余計に使うことになるので、とても疲れた。
体育が苦手な発達障碍者は多いらしいけど、単純に歩く・走ることはできる。
むしろ動いていないと落ち着かない多動症があるので、じっとしなきゃいけないものは苦手だった。
そのため本当に小さい頃からダンスが好きだった。
様々なダンスを経験した。社交ダンス、サルサ、よさこい。
でもどれも、わたしはアレンジしてしまうらしくて、他の人に合わせる、リズムに合わせる、ということが苦手だった。
ダンスも、自由に踊らせてくれるなら、いつまでも赤い靴の少女になれるのにな、と思った。
多様性は、ひとり歩きしてる
かのけん君の講演の中で「多様性」という言葉がたくさん出てきた。
どうやら世間は「多様性」に注目しているらしい。
そもそも人間は、とてもとても弱い個体なので、それを補うためにコミュニティ(集団)を作った。
その集団の中では様々な仕事を役割分担する必要性があるため、「神様」は、種の保存のために「多様性」を認めた。
なので人間は、「もともと多様であっていい、遺伝子がそうなんだから」ということらしい。
しかし大人数のコミュニティの中では貧富の差が生まれる。
そして優劣が生まれる。
また世の中が便利になればなるほど、人々は贅沢になっていくので、他を蹴落としてでも自分に利があることを優先する。
欲望にまみれたねずみ人間の考察はこちら
「神様」は多様性をもつことを許しても、人間たちは多様性を認めない。
なぜなら自分と違うものに違和感を覚えるから食糧にできる。あるいは恐怖の対象となる。それは本能だ。
このシステム、つまるところ多様性を認めているのは、コミュニティ外の傍観者であること。
ポップコーンでさえ色んな形があるのに、ポップコーン自体は多様だと思っていない。それを客観的に見つめる傍観者が「多様だな~」と呑気な感想を述べているだけのこと。
同じように、障害者は障害者と思ってない。それを客観的に見る他人が「障害がある人」だと呑気に思っているだけのこと。
このように、人間は比べることでしか(相対性)価値を共有できない生き物なのだと、わたしは諦めている。
わたしはそんな人間を、社会を、変えようとも思わない。けれど、その世界で生きていくことは嫌だから、わたしは「絶対性」の中で生きると決めた。
それが、齢15。
絶対性、自分は何者か
かのけん君の講演の中で最も印象的だったのが「自分が何者なのか」という葛藤。
彼はその悩みを考えぬき、「かのけんは、かのけん」に行き着いた。
つまり、「自分は自分以外の何者でもない」ということだ。
わたしも、「みつねこは、みつねこ」だと考えている。
というか、そう考える他ない。
だって基準となる「普通」ってやつがわたしの普通ではないので、ものさしにならない。
普通人は普通人の中で、様々な幸せや悩みがある。
障害者人にも、病人にも、金持ち人にも、有名人にも、科学者にも、犬にも、アザラシにも、多様な幸せや悩みがある。
それを同じにしたり、同じように考えることはできない。なぜなら人種や動物種が同じであっても「別々の個体(意識体)」なので違うものよね、というだけ。
わたしはシンプルに、「それなら他を害すことがない限りは自由に生きていいし、表現していい」と思った。
それは「Wiccan Rede」という魔女の教えにも繋がる。
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An it harm none, do what thou wilt(害をなさない限り、あなたが望むことする)
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An it harm none, do as thou wilt(害をなさない限り、あなたの望むようにする)
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That it harm none, do as thou wilt(それが害を及ぼさないように、あなたの望むようにする)
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Do what you will, so long as it harms none(害をなさない限り、あなたのしたいことをする)
そう生きることで、わたしは自由であり、害をなさないよう責任があり、表現することを許された。
誰でもなく、蜜猫が蜜猫に許しを与えたのだった。
他人と競争や比較せず、自分の価値を自分で決め、認めることで、ものさしができた。これが絶対性の世界だ。
わたしは自分のものさしで、価値をはかることができる。
ただのいち人間。と思うことにする
わたしは、人間を見るとき、ただのいち人間と思うようにしている。
よく「その人の悪い所よりも良い所を探すようにしている」と言う人がいるけれど、
わたしの場合はむしろ悪い所がどこかよくわからん!が先行する。
なぜなら、そもそも「色が見える」ので、ヤバイ奴には最初から近づかない。
いい色した人だけと付き合うので、必然的に「尊敬する人々」という位置づけなのだ。
どんな経歴・肩書をもっていても、わたしはそれも気にしない。
なぜなら、わたしに見えている景色はその人そのものを表すので、変に緊張したり、見栄をはる必要はない。
景色が混ざれば、化学反応が生まれて、とても面白い色(事象)になる。
わたしはそれを嘘で濁らせたくない。嘘は、色も事象も濁って汚い。
かのけん君は、とても素晴らしい人だ。
わたしが一番に感じたのは、彼は表情が豊かであること。
多彩な表情は、背景も多彩になる。
共感覚者ではなくその色が見えない人でも、言語外言語で感じることができるだろう。
その色は、正直者同士であれば化学変化を起こし、一層鮮やかで不思議な色の景色を作るだろう。
表情を変える時、気持ちもそこにマッチングしていて、それが一瞬で切り替わるので、彼の色は紙芝居のようにコロコロと色が変わる。
こんなに一瞬で色が変わる人は出会ったことがない。
彼の場合は、深層アートで描けない。動画にしなければ、すぐに色が変わってしまうから。
得意をやればいい
かのけん君はダンスの道へ。
それは好きだから、楽しいから、得意だから。
わたしは魔女の生き方へ。
それは好きだから。納得したから。
結局、欲張らずに、得意なことをやればいいと思う。
才能や努力という意味ではなく、心が喜ぶことをやればいい。
無理してグルコースを使って疲れることをしなくてもいいと思う。
また、わたしは「自分が何者であるか」を考えたことがなかった。
それは光の玉が突然会話してきたり、道を照らすことが多かったため。
最初から人間の話をよく聞いていないし(聞いてもよくわからない・頭に入ってこないせい)、こだわりが強すぎて話も通じない、
しかしこれを「蜜猫が蜜猫だ」と決めないと、認めないと、いけなかった。
そうしなければ、そう思っていないのに嘘をついたり、ごまかしたりして生きなければならない。
光の玉は、嘘をつくことを許さなかったので、わたしは必然的に「頭ぽんこつ蜜猫」を認めて、自己と決定しなければならなかった。
しかしそのおかげで、ある日は頭キレッキレの蜜猫で、またある日はぽんこつ脳蜜猫な、そんなわたし自身は味があるし、ネタがつきなくて面白いなと思う。
それに、ヒーローって20面相とか、1000の顔を持つというし、そのうちの半分くらいは「デキナイコト」がランクインしてもいいと思う。
人それぞれ、できないことがあるのが当たり前で、それを補うために多様性の遺伝子をもつのだから、
「得意なことを伸ばして、不得意なことを無理しない」というサッパリした考え方が今後広まればいいと思う。
どうせ、AI時代になれば「なんでもできる奴」が現れるのだから。人間はぽんこつでいいんだよ。最初からぽんこつだよ。
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