先日、急性腸炎になった。
ヘロヘロになりながら動くこともできないわたしを家族が病院へ担ぎ込んで、事なきを得た。
「点滴してくれたら頑張ってポカリ飲むし、スープ食べる」と言ったので、入院しなくて済んだ。
考えてみると胃腸の病気ばかりを繰り返している。
どうやらわたしの胃腸は消化力が弱いらしい。ついでに腸は長いらしい。
当たり前、ってなんだ
そのため、世間では積極的に摂取すべきものが、わたしの胃腸にとってそうではない。
たとえば、食物繊維や酵素。消化力が低下するのでなるべく摂らないほうがいいとのこと。
たとえば、炭水化物。これは炭水化物不耐症でもあるため。食べすぎると体の調子が悪くなる。
たとえば、スパイスやカフェイン、糖分。刺激物だから。まあこれは、一般的にもほどほどがいいのだと思う。
そんなこんなで食べられないものが多いから、何を食べて生きればいいんだろう?と思うことがある。
少しは食べてもいいのだが、食べすぎるとまた腸炎か腸閉塞をおこすので、そのバランスが難しい。
誰にでもいいって、なんだ
そんな中、ファスティング(断食)やダイエットなど、良かったこと(もの)をすすめられる。
「私がよかったから、おすすめしたい」気持ちはとてもよくわかる。わたしも好きな毛糸をおすすめしたい。
だけど、体や精神のことに関しては、おすすめしていいのか?とも思ってしまう。
健康は、「誰にでもこの方法がいい」というのがないと思う。
わたしは胃腸の病気になるとしょっちゅう断食を強いられていて、もう慣れて辛くはないけど、お腹は減る。
お腹が減った時に、食べないことと、食べてはいけないことの間には、大きな差があると思う。
わたしはお寿司が好きだが、ナマモノだから食べてはいけない。病気が終わっても食べてはいけない。
でも自ら進んで断食する人は、終わったら好きなものを食べてもいい。とてもとても羨ましい。
オーガニックにこだわろうと、そもそも食べることができて、消化できて、吸収できることが羨ましい。
わたしもオーガニックで野菜やハーブを育てているが、食べられない野菜(根菜類)もある。おいしいのに。
健康はオーダーメイド
だから、健康はその人それぞれの体調と体質にあった「オーダーメイド」であるべきだ。
忙しさや、流行りに目が眩んで、良いと言われるものをただ摂取するだけではだめだ。
自分自身がきちんと食べるもの、着るもの、居場所を決めること。
それは、緑の魔女の最初の仕事である「自分で決める」だ。
その言葉は、なんだ
わたしは自分でHSP(繊細さん)だとは思っていないけれど、突然傷ついて、仕事ができなくなる日がある。
しかも悪いことに、何で傷ついているのかわからない(おそらくASDのせい)ので、ひとしきり「何で悲しいんだ?何で泣くんだ?」と考えている。
振り返ってみるとその悲しみは、たまたま相手が放った言葉が、わたしの中のコンプレックスの部分に触れてしまったものだろう。
わたしのコンプレックスは、数字が理解できないことだ。
たとえば、家具や空間の大きさ、在庫の個数、編み目の数、時間…そんな認識に欠けている。
計算が遅いとかできないというだけでなく、こう、ぼんやりとしたイメージですらもできない。
実は「数をかぞえる」こともうまくできない。51の次に71がきたり、61を2回数えたり、数が戻ったりする。
日常ではそれを隠して(笑)生きていて、数字のことを聞かれても流していたりする。
細かい数はわからなくても、全体をだいたいの感覚で捉えることができるから、それでも困ったことにはならない。
絵に描けば計算することができるのだが、会話の中で計算することができないので、自分(の感覚)が正しいのかわからなくなる時がある。
先ほどもそんなことがあって、「これ(たぶん寸法)は無理ですね」と言われて、わたしは自分の計算ができないことを羞恥したが、しばらくして、この言葉はわたしじゃなくて相手が無理(できない)という意味だとわかった。
まず主語を言ってくれ!主語を!
そして会話の中で数字を理解できない人もいるんだということ。
あー、とても傷ついたなあ。
多様性の果てに人類はどこへ行くのだろうか。
正直こんなんじゃ、どっち行っても同じだろう。
グッバイ、あたりまえ。