それは人の一部分でしかないのに、それだけですべてを分かった気になって、その浅はかな勘違いにも気付かない、恐ろしい人間という生き物のはなし。
書き綴った日々
昨年の11月から平日ほぼ毎日、2000文字(400字詰め原稿用紙5枚分)の原稿を書き続けて、今年6月にその任を終えた。
「お疲れ様」と言われるが、わたしにとって2000文字は、blogの1ページ分と同じ文字量だ。
blogはかれこれ10数年に渡り書き続けているので、つまり、わたしにとって文字を書くということは「日常」なのだ。
逆に言えば、原稿を脱稿したからといって、「もう書かなくてもいいや」にならない。
毎日、毎日、何かを書いて、内側に溜まったものを吐き出し続けないと、わたしは死んでしまう。
死因は圧死。ヒステリックな情動に圧し潰されて、息ができなくなってしまう。
まあ、それを防ぐためには別に文字に限らず、絵でも、音楽でも、なんでもいいのだけど。
「個」として繋がる
さて、原稿を執筆しているあいだ、わたしは意識的に集中する環境を作っていたようだ。
それ以外のことはすべて後回し、大義名分のもとに引きこもり生活を謳歌していたわけだが、今やその枷も外れ以前より人とコミュニケーションをとるようになった。
本が発売された折にはぜひご拝読願いたいのだが、そこにも、「わたしの周りには素敵な人々しかいない」と書いた。
発達障害のASD・ADHDからくるコミュニケーションの至らなさ、察せないこと、衝動的行動がコンプレックスなわたしであるが、ほんとうにわたしの友人たちは、「わたしそのもの」を「個」として捉えてくれていると感じる。
わたしも友人のことを「個」として捉えている。
そもそも、わたしには相手の「深層の色」が見える。
相手がなにを隠そうが、なにに怯えようが、どんなコンプレックスやトラウマを抱いていようが、「色」でわかってしまう。
プライバシーもあったもんじゃないんだが、見えてしまうんだからしょうがない。
だからわたしも、必然的に正直者の友人たちとしか付き合わないのかもしれない。
「友達」はもっと浅いものなのかもしれない
けれど一般的に「友達」とは、もっと浅はかな付き合いのことを言うのかもしれない、と最近思った。
それは、多くの人々がSNSでコミュニケーションをとり、SNS上で一喜一憂することが不思議に思ったことがきっかけだった。
たった400文字そこらの文中では「個」のすべてが反映されるはずもない。
しかもわたしの場合、SNSのキャプション(本文)を読んでも、相手がなにを言いたいのかわからないことが多い。
日本語の文法も、誤字脱字も、句読点の位置も気になって、まったく頭に入ってこない。
主語はどこだ、主語は。
時系列順に整理して書いてくれ。
そんで結論から先に言ってくれ。
いい歳になって「夫」と「旦那」という言葉を使い分けられないの恥ずかしくないんかな。
…などと考え込んでしまうのだ。
もちろんわたしの日本語もおかしい。
この度、編集さんから原稿に赤ペンを入れてもらって、「あ、わたしって助詞と受け身の使い方が結構間違っているな…」とわかった。
だから自分のことは棚に上げて、よそ様のことをとやかく言えないのだけれども、何度読み返しても「SNS構文」はまったく意味不明なのだ。
SNSは表層でしかない
結局、そう、「400文字程度では伝わらない」に帰結して、そこで他者とコミュニケーションを図ろうとはわたしは思わない。
お店の宣伝はする、便利だし、同じ趣味や価値観を持つ人と繋がりがあるのは嬉しい。
そんな趣味友? 価値観友? がアップした写真のタイムラインを見るのも楽しい。
だが、自分から積極的にコミュニケーションをとろうとは思わないのだ。(たぶんこんなROM専な人は多くいると思う)
だが驚いたのは、SNS上だけですべての情報を流してます!
わたしをわかってください! もちろんわかってくれているよね!
という人が意外に多いことだ。
いや、文字だけで人間のなにをわかれというのだろうか。
せめて名前と顔を出せ。そして動画でスピーチでもしろ。とわたしは冷静につっこんでしまった。
皆さんはどう思う?
たとえば、自分の感想をただ垂れ流すだけの日記と化したSNSなら、自己完結だから別に構わない。
でも仕事(お店とかビジネス用)のSNSの場合、売っていかなければならないのは第一に「人柄」だと思うんよ。
人柄は、摩訶不思議アドベンチャー「SNS構文」じゃ伝わらなくない?
文字だけで人柄を示すためには、相応の文字数でジャブを打っていかないと。
ジャブよりも効くストレートやアッパーで、一発KOするなら、動画で顔出しして自己紹介でもしたほうがいいと思う。
つまり、人柄の奥の奥とか、裏の裏までは見えない、長い付き合いでもない限り。
逆に言えば、表面的なキャラクターブランディングには「SNS構文」は適していると思う。
表側しか出さなくていい。でも念入りにキャラクターを作り込んで、それを演じる必要がある。
それはそれで難しくて、どこかのタイミングで「素」は出てしまいそうだ。
文字・言語だけでは伝わらない
なにが言いたいかというと、
どうして皆、文字や言語ですべて伝わると思っている?
それは幻想だよ。
文字を信頼しないほうがいい。
日本人の皆が皆、日本語をきちんと理解しているわけではないし、
第三者が読んだとき「まったくちんぷんかんぷんな文章」を書いている場合だってある。
もちろんわたしも、間違った日本語を使い、おかしな文章を書いているかもしれない。
「ちゃんと書いたから伝わっている」とは思わないほうがいいし、なんなら大事なことは同じことでも繰り返し書くべきである。
それも、きちんとした文字量で。
SNSじゃ伝わらん。まじで伝わらん。
非言語の重要性
わたし的には、非言語コミュニケーションもだいじだと思っている。
前述した「顔出しして動画スピーチ」を例にすると、そこあるのは文字や言語だけのコミュニケーションだけではない。
たとえば、微妙な表情の違い、ジェスチャー、アクセント(強弱)、イントネーション、目の輝き、息遣い、服装、清潔さ……
言語外言語でわかる情報がたくさんある。
多くの人間は非言語の部分での印象で7割精査しているという。
文字だけ、話の内容だけ、よりも視覚的にわかりやすい。
ライト・コミュニケーションの需要
「SNS構文」を使った、表面上のコミュニケーションの需要は近年高まっているのではなかろうか。
だから、皆それに対して一喜一憂したり、アンチに腹を立てたり、居場所を作ったりするんだと思うのだが。
高まっていることはわかりつつ、わたしとしては、ライトなコミュニケーションを必要としていないし、
浅い関わり=どうでもいい みたいな感覚があり、そこにグルコースを消費するくらいなら独りで読書でもしたほうがマシ、とすら思う。
(かと言って、ヘビー・コミュニケーションも嫌気が差すので好きじゃないが)
ルッキズム文化も相まって、「表面上を右往左往する人々」は今後ますます増えるだろう。
わたしはそんな時代を横目で見て、末恐ろしく面倒になるのだった。
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